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桜宮高の体罰問題に疑問をもちました

被害者の生徒さんや遺族の方には心からお悔やみ申し上げます。

桜宮高の体罰問題に疑問をもちました。
さてなぜそんなことを言うか
それは体罰とはどういった事かということです。

体罰と表現されると
授業中に廊下に立っていろといわれたり
罰として校庭10周!も体罰に入りますよね?

これはまず体罰から抜いた前提です。

桜宮高の体罰は体罰では無い!!
そんな声が先生を後押ししています。
確かにバスケットボール部は全国に名を轟かせる
いわゆる強豪校です。

しかし、今回の事件では体罰ではなく
行き過ぎた指導による暴力という
捉え方をしていただいた方が良いと思います。

なぜそんな回りくどい言い方になるか。

罰というものは何か
指導というのは何かです。


桜宮高の先生は指導をされていました。
そのおかげで社会にでて活躍した方も大勢いるはずです。
そこには師弟関係があり尊敬の念が双方にあったはずだからです。

しかしこれらもひっくるめて体罰という。
おそらく同じことをされたはずです。


今回の被害者の生徒さんは
先生のことをどう見ていたのでしょうか?
師として?大人として?同じ人間として?

師として見ていなければ
行き過ぎた指導は暴力に変わります。

大人として見なければ
尊敬が出来ません

人としてみなければ
コミュニケーションが取れません


過去の生徒さんは
先生を擁護しています
なぜか?
おそらくそれは社会に出たときに
その時間ほど頑張り苦しかった時間はないからこそ
成し遂げられると理解できたから。

しかし
高校生にはそんな有り難みは分からない
わからなくてとうぜんです。

そのへんが先生は理解出来なかった。

だから食い違う双方の意見。

先生は指導が行き過ぎたと思い

生徒は体罰を毎日受けている。

違うのです。

先生は指導をしていたのです。

道を指し示し導いていたのです。

今後起こり得る不測の事態にも備えられるように。

結果は悔やんでも悔やみきれません。

桜宮高のみなさんは本当に残念だと思います。

しかしこれは桜宮高だけのもんだいではありません

いま、先生と生徒の本来の関係は失われています。

本来は生徒は先生を尊敬するはず。

先生は生徒を思いやる。そして導くためのもの

今回は体罰が取り沙汰されていますが

本質は体罰なのではなく

生徒と先生の関係性の崩壊が引き起こした

行き過ぎた指導だったと私は思います。


罰という言葉は非常に重い言葉でハッとさせられますが

本質を考えた上で使って頂きたいと考えました。


もう一度教育ということについてじっくり話し合うときが

この桜宮高の体罰問題から

始まったのだと思います。


指導されている先生方、もう二度とこんな過ちを犯さないように

諦めないで生徒と向き合って欲しい

そう願います


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